ももばちの軌跡

人のヤミが好きなだけのももばちの、ヤミの悲鳴とアイ。自分のヤミと向き合いながら生きる、ももばちの奮闘記。

25年、生きた。

珍しく、誕生日を自分で祝おうという気持ちになっている。

 

生まれてから、今日で25年。

生きたなあ〜。自分がこんなに生きると思ってなかった。

 

私はたぶん、生きるのが下手くそで。誰かと比べたくはないけれど、生きてるだけでいっぱいいっぱいで。まわりの人たちが普通にできてることができなくて。

できないことがたくさんあるのを隠すように、逃げるように生きてきた。

 

それでも、こんな生き方でも、25年生きられた。

もう生きたくないと言い続けながらも、今生きている。

 

今晩は1人で、25年生きた自分に乾杯しようと思う。

感情ブレーカー

今、私は何を感じているのか。

私の中に、何があるのか。

 

感情のブレーカーを落としてしまった今の私には、よく分からない。

 

ちょっとしたことで10日ほど入院することが決まった時、私の中の感情ブレーカーがバチンと落ちた。

(幸いすぐに回復して明日退院予定です。)

入院することになっても全く動じず、それまでの情緒不安定が嘘みたいに落ちついている自分がいた。

感情から切り離された異世界に放り込まれたような、不思議な感覚。

今思えば、入院生活は共同生活が苦手な私にとってストレスの塊だったはずで。

起きる時間、寝る時間、ご飯を食べる時間すら自分で決められない。間仕切りカーテンがあるとはいえ、いつ誰がひょっこりやってくるのか分からない環境は、恐怖でしかなかった。

 

あ、この環境ムリだ。こわい。

そんな感覚を取り戻しはじめたのは、入院してから1週間して、入院生活の生活の流れがある程度理解できるようになってからだった。

 

時間を持て余しても、スマホを見る気にも何かを考える気にもならなくて、

感情に蓋をすることに徹していたような気がする。

 

感情ブレーカーが落ちてくれて良かったと思う一方で、

日常に戻ってブレーカーを上げた時に何が湧き上がって来るのか分からなくて、こわい。

 

だから退院前に、こうやってブログを書いてみた。そろそろ自分の中にある感情を、ちょっとずつ拾い上げたくて。

 

いま私の中にあるもの。

 

常に人の気配がすることへの気疲れ。

生活のすべてを管理されていることへの息苦しさ。

人の作ったごはんが食べられるありがたさ。

看護師さんだけじゃない、栄養士さんや清掃員さん、顔拭きタオルを配りにきてくれるおばちゃん、たくさん人たちのおかげで生活させてもらっていること。

入院している人それぞれの人生。

こういう時に、音楽は偉大だなと感じること。

退院後のことを考えることへの抵抗感。

入院中みたいな規則正しい生活を維持することの難しさ。

反動ですべてが崩れてしまうんじゃないかという、漠然とした不安。

 

んーまだありそうだけど、湧いてこないから感じにくい。

もう少し耳を傾けてみる。

 

「いない方いい」の呪い

私はいてもいなくてもいい。

必要とされてない。

だったら、いない方いい。

 

そんな呪いが、ことあるごとに胸を締めつけて、私の存在を消し去ろうとする。

 

いない方いいのかな?

そんな不安が拭えなくて、逃げるようにその場を立ち去る。

 

そんな生き方をしてきたから、ずっとひとり。

歩み寄ってきてくれる人に対しても、心のどこかで「ほんとはいてもいなくてもいいんでしょ?」って信じられなくて。

 

私がいなくなっても、みんな生きていける。

もしも死んだら、ちょっとは泣いてくれるかもしれないけど、1週間もすれば、何事もなかったかのように日常に戻っていく。

 

それぞれがそれぞれの人生を生きているんだから、当たり前のことだと思うけれど、

それがどうしてこんなにも、虚しくて苦しいんだろう。

 

いてもいなくてもいい存在なら、いない方いい。

いてもいなくてもいい存在なら、こんな苦しい思いしてまで生きたくない。

また助けてって言えなかった。

今日はちょっと寝不足だったからか、脳内がうるさい1日だった。

日中はハイモードで、頭の中で変な実況みたいなのがずっと流れていて、

帰宅した瞬間、ヤミモードに切り替わって、一斉にヤミが騒ぎ出した。

 

もう、生きるの疲れた。

そろそろエンディングでもいいんじゃない?

もう充分生きたじゃん。

 

今すぐ死にたいっていうのとは違うけど、

生きることがどうしようもなく嫌になった。

 

生きたくなさすぎて、ごはんを食べるということに強い抵抗を感じた。

 

どん底に比べたら、この程度じゃ死なないんだろうなとは思いつつ、

込み上げてくる行き場のない苦しさを、溢れてくるヤミの声を、誰かと分かち合いたくて、

何人かのLINEを開いては見るけれど、

あの人もこの人も、それぞれの事情があるよなって考えちゃって、

もう、寝た方早いやって。

 

そうやって、自分の中の大きな穴が、また広がっていくんだよなって、分かってはいる。

 

相手の負担になるのが、どうしようもなく怖いんだ。

 

また応えられなくて、ごめん。

ずっと、気づいてほしかった。

人と感情を共有したい欲が、ものすごく強い。

もっと深く知ってほしい。見てほしい。

 

そう強く感じるのは、長い間、小学5年の時からずっと、

人に感情を見せることを封印してきたからなんだろうな。

 

暴れ狂う感情や感覚を、誰にも悟られてはいけない。

私の感覚は、「普通」じゃないから。「変な奴」って思われるから。

私の本当の感情を知られたら、母親が傷ついて荒れ狂って、家族が崩壊するから。

 

こんなの大したことじゃないって、表向きは強い自分を演じて、ポーカーフェイスを貫いていた。

 

高校の時には毎晩のように、一緒に住んでいた祖母が寝て1人になってから、堰を切ったように涙が溢れ、声にならない「消えたい」という悲鳴を嗚咽とともに噛み殺していた。

 

こんなにも生きることが苦しくて、

それを誰にも分かってもらえない絶望が、

今も私の中に残っている。

 

ほんとは、気づいてほしかった。

平気なフリをするのが上手くて、身体が重くて起き上がることすらできなくなっても、何も食べられなくなっても、バレないようにうまく誤魔化してやり過ごしてきたけど。

ほんとは、1人では抱えきれないくらい苦しくて、ずっと誰かに助けを求めてた。

 

でも、私の感覚は「普通」じゃないから、誰を信じたらいいのか分からなくて。

信じて裏切られて、みたいな人間関係の駆け引きにうんざりしてて。

そんな駆け引きするくらいなら、私はひとりで生きていく。

 

そう決めたはずなのに、やっぱり、ひとりで生きるのは、苦しかった。重たすぎた。

小学5年生で暗黒時代に入ってから今まで、生きることは、しんどいことが9割だった。

 

生きることは苦しい。

 

だったらせめて、この苦しみに気づいてほしい。見てほしい。

 

人といる時は封印するものっていうのが染みついてて、なかなか解放できないのがもどかしい。

演技しちゃう自分に腹が立つ。

 

でも、

気づいてほしいんだ。

私の苦しみとかしんどさとか痛みとか、

全部、今、ここにある。

存在証明としての恋愛

ただの恋愛依存こじらせてるだけなんだけど、

やっぱり、私の存在を圧倒的に求めてくれる人がほしいって思うんよな。

 

相手からの愛を求めるだけじゃなく、私が相手を心から愛せるような人とパートナーになりたいとは思ってるけど、

絶対条件として、相手が私の存在を圧倒的に求めてくれて、それによって私が私の存在を信じられることっていうのが大きいから、

どんなに魅力的な人に出会っても、私から好きになるということが、まずない。

 

相手から求めてくれないと、信じられないから。

 

自分の存在意義を1人の人に求めることの危うさは痛感してきたけど、

それでも誰かに存在を求められているって信じたくて、それがパートナー以外だとなかなか信じられなくて。

 

もっと分かりやすく、圧倒的に存在を求められてる実感がほしい。

私がこの世界に存在する理由をつくってほしい。

 

うーん、こじらせてるなぁ、、、

もっと深く、つながりたい

人との距離感を縮めることが苦手で、

内側で無意識的にものすごく距離をとって人と関わっている自分がいる。

 

むき出しの感情をそのまま表現することができなくて、

「また共有できなかった」

そんな虚しさが、悔しさが、寂しさが、

身体中を駆け巡る。

 

ほんとは、この溢れんばかりの感情や感覚を、誰かと共有したい。

 

記憶を辿って説明的に話すんじゃなく、その時その瞬間に溢れる感情や感覚を、感情的な言葉で、そのまま共有したい。

 

でも、いざ自分の感情を共有しようとすると、自分の感情感覚がスーッと引いていって、今何を感じているのか分からなくなる。

 

心の距離感を保とうとしてる自分がいて、なかなか表現することを許してくれない。

 

 

でも最近、表現しなくても感覚を共有することができるのかもしれないと思った出来事があった。

私の価値観に共感してくれているとある仲間が、私の住んでいる地元に遊びに来てくれて、私のルーツとも言える大切な場所を案内していた時のこと。

私にとって、ここが原点であり私のアイデンティティの根っこにある場所に足を踏み入れた時、

何も言っていないのに、「ここはすごい…」と涙を滲ませてくれて。

「言葉にできない」と言いながらも、私の原点から何かを感じ取ってくれたことがすごく嬉しくて。

 

私の根っこを受け入れてもらえた。

そんな感覚に、込み上げてくるものがあった。

 

うまく言葉で喋れなくても、別の形で感覚を共有することもできるのかもしれない。

 

むしろ、言葉にしきれないところを共有したいのかもしれないな。