ももばちの軌跡

人のヤミが好きなだけのももばちの、ヤミの悲鳴とアイ。自分のヤミと向き合いながら生きる、ももばちの奮闘記。

「ゲタ笑い」が消えた日

黄金時代の記憶

むかしむかし、私はゲタゲタ笑う子供だった。

お腹の底からこみ上げてくる笑いが止まらなくなって、何がそんなに面白いのか分からないけど、ただただ楽しかった。

 

私が笑うと、父は決まって、

「出ました、ももちゃん名物ゲタ笑い~!」

と言って盛り上げてくれた。

それがまた面白くて、私のゲタ笑いはますます止まらなくなる。それを見て、まわりのみんなも自然と笑う。

 

私の黄金時代の、大切な思い出。

 

その時は、ずっとずっと、何歳になっても、私のゲタ笑いでみんなが笑うあったかい日々が続くって、なんの疑いもなくそう思ってたんだ。

 

「普通」との遭遇

私のゲタ笑いが突然消えたのは、小学5年生になったとき。

 

それまで通っていた、全校生徒3人という小さな山奥の学校が廃校になり、全校70人ちょっとの学校に転校することになった。

 

山の中を駆け回って育った野生児の私にとって、そこは未知な世界だった。

 

その世界の子たちの口からは、聞いたこともない芸能人の名前やゲームの話が出てくる。

話についていくこともできなければ、友達と一緒に笑うこともできなかった。

 

そっか、私は「普通」じゃないんだ。

 

小学5年生だった私は、その時、初めて「自分」を捨てた。

 

「普通」になりたかったから。

 

何をしても、まわりから「変」って思われてるんじゃないかって気がして、笑うことすらこわかった。

 

とにかく、必死にまわりに合わせるしかなかった。何をしても面白くなくて、こわくて、さびしくて、苦しかった。

 

お母さんの異変

学校で「自分」を偽り続けるのも苦しかったけれど、それよりもっと辛かったのは、お母さんの存在だった。

 

もともと精神的に不安定で、私が小さい時からよく家出して、行方不明になることの多かったお母さん。

そんなお母さんの様子が、急激に悪化したのが、ちょうど私が転校した直後だった。

 

お母さんが言うには、私とお母さんは生き写しかのように性格が似ていて。今までたくさん苦労してきたお母さんは、自分と同じような人間をもう1人産んでしまったことを後悔していた。

 

そのことがはっきりと分かったのは後になってからだけど。それでもその当時も、私が学校でうまくいっていないことなんて、お母さんには絶対言えなかった。心配性のお母さんが心配して、ますます不安定になるのが目に見えてたから。

 

私は、家でも自分の感情を殺すことにした。

 

でも、どんなに隠しても、お母さんが何も気づかないなんてことはなくて。私が学校に馴染めないことを、自分のせいにしてしまうお母さんは、自分を責めて、責めて、おかしくなった。

 

日に日にお母さんが家出する頻度は増えて、私の家はボロボロになった。

夜になれば、家出しようとするお母さんと、それを止めようとするお父さんとの喧嘩が始まる。

 

その音は、私や弟が寝ている部屋まで筒抜けで。不安そうにしている弟に、「大したことないよ」って、動じていないフリをして見せたりもした。

 

忘れられない、一言

 中学3年の夜だった。

 

「産まなきゃよかった」

 

絞り出すようなお母さんの声に、私の中で、何かが壊れた。

 

そんなこと言うなら、最初から産まないでくれたらよかったのに。

 

私さえいなければ。

 

私さえいなければ、お母さんも他の家族も、こんなに苦しまずに済んだのに。

私さえいなければ、この家族はあったかくて楽しい家族のままでいられたのに。

 

私を産んだお母さんにすら求められていない自分に、存在価値があるとは思えなかった。

 

この時、処理しきれない行き場のない感情が、私の心を破壊し、麻痺させてしまったのかもしれない。 

 

 

今はもう出てくることのない、ゲタ笑い。

かわりに現われたのは、感情を表に出せない、ポーカーフェイスの私だった。