ももばちの軌跡

人のヤミが好きなだけのももばちの、ヤミの悲鳴とアイ。自分のヤミと向き合いながら生きる、ももばちの奮闘記。

嫌いなものを嫌いと言うこと

母から、あんみつの差し入れが届いた。

「賞味期限切れてるから早く食べてね」とのこと。

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私、あんみつ嫌いなんだよな…。

思ったけど、何も言わず、ありがとうとLINEした。

 

そういえば、この前体調崩した時の差し入れもあんみつだったなと思い、冷蔵庫を開けると、同じものが入っていた。苦手だからと食べないでいたら、こちらもやっぱり賞味期限が切れていた。

 

賞味期限がきれているとはいえ、まるごと捨てるのはさすがにもったいないので、どうしても食べれないあんこだけ捨てて、黒蜜をかけて食べた。(ちなみに黒蜜もあまり好きじゃない)

 

母は、私の嫌いなものを知らない。

それは、私がそもそも言ってなかったのか、1回は言ってみたけど覚えててもらえなかったから諦めたのか、分からない。

2個上の姉が私と好き嫌いが正反対なので、混同しているのかもしれない。

いずれにしても、私は幼い頃から、嫌いなものをあまり言わない子どもだった気がする。

 

チーズが大好きで、シチューやグラタンが好きということは、家族全員が知ってるくらい主張してきたのに、なぜか、嫌いなものは言えなかった。

 

子どもなりに、せっかく作ってくれたもの、用意してくれたものに「これ嫌い」ということに抵抗があったのかもしれない。

 

たまに母がごはんを作れなくて、父が作ってくれたチャーハンに、「これしょっぱすぎるよ!」と笑いながら言っていた記憶はある。

 

今でも、相手が父なら「これ嫌いなんだけど」と笑い混じりに言える気がする。

 

私は母の顔色を過剰にうかがいすぎているのかもしれない。

 

実家に帰る度に出てくるカボチャ、ユウガオ、味噌汁の中のナス、、、

どれも嫌いなものばかりなのに、顔色ひとつ変えずに(内心頑張って)食べている。

 

「私、実はこれ苦手なんだよね、、、」

今さらそんなことを言ったら、母はどんな顔をするだろう。

 

いつか、嫌いなものを嫌いと言える関係性になれたらいいな。

もういいかい?

※ヤミブログです。

 

高校までの私は、とにかく消えたくて、でも、死ぬことがなんとなく怖くて死ねなかった。

 

大学進学のタイミングで、「やりたいことをやりきってさっさと死のう」と決めてから、不思議と死への恐怖はなくなった。

 

今も、死にたいっていう気持ちがそんなに強いわけではないけど、別に今死んでもいいなっていう感覚がある。

 

私が私のままで生きることに限界がきたら、その時に死ねばいいや、と思ってるので、将来の不安とか、ほとんどない。

 

最近はありがたいことに幸せなことがたくさんあって、もう、一生分の幸せを味わい尽くしたんじゃない?って思う自分がいる。

 

とはいえ、相変わらずこの世界で生きることは、私には難しすぎて。

 

もう充分幸せになったんだし、そろそろ頑張って生きるのを辞めてもいいんじゃない?と、心の声が聴こえる。

 

今めちゃくちゃ苦しいかというとそんなことないし、今すぐ死にたいとか思ってないから、なんだかんだ生きるんだろうなとは思いつつ、

 

私の人生のエンドロールを探している。

唐突に現れるヤミと自己対話してみた。

最近、すごく調子はいいんだけど、時々、唐突にヤミが襲ってきてどうしようもなく苦しくなる。

 

そのヤミは、しばらくするとスっといなくなるので、これまではただ耐える、ということしかしていなかったのだけど、

一瞬だけやってくるこのヤミも、きっと何かを伝えようとして来てくれているんだろうなとふと思い、ヤミの声に耳をすましてみることにした。

 

よく考えると、このヤミは人と喋った後、テンションが上がった後にやってくることが多い。

 

何を言いたいの?

何があなたを怒らせてるの?

 

心の奥底のヤミに何度も問いかけ、ゆっくり感じる。

 

そうしているうちに、出てきた言葉はこうだった。

 

私はそんなに明るく大きなリアクションするような人じゃない。元気で楽しげな自分を演じすぎ。相手の喜ぶリアクションをしてるだけで、それは素の自分じゃない。そんなことしてるから疲れるんだよ。

 

でも、それは私にとって納得しがたい言葉だった。

たしかに、昔からその場や相手に合わせた自分を演じる癖は身体に染みついている。それが無意識のうちに出ていたのかもしれない。

とはいえ、最近元気なのも、嬉しくてテンションが上がる気持ちも本物なのに、その表現が演技だと言うのだろうか。

楽しい時に楽しさを、嬉しい時に嬉しさを表現することの何がいけないんだろう?

 

さらにヤミに問いかけると、浮かんできたのは、明るい部分だけ表現することでヤミの存在をないことにされることへの恐れ、のようなものだった。

 

明るい元気な自分を表現すればするほど、ヤミが「私はここにいる!」と言わんばかりに存在を主張してくる。

 

そうだよね、ヤミも含めての私だもんね。

思い返してみれば、あたかもヤミがいなくなったかのように「もう元気になったので大丈夫です!」って言っちゃってた自分もいる。

ヤミの存在を打ち消すように、元気な自分、明るい自分を誇張していた気もする。

 

最近エネルギーが湧いてくるようになったのは確かだけど、それでもヤミはいなくなったわけじゃない。ヤミと一緒に生きている。

 

なかなかバランスをとるのが難しいけれど、ヤミの存在も否定しないで生きていく。

長いと思ってた階段は、笑っちゃうほど短くて。

最近、家にいる時間が重苦しい。

家にいる時間をなるべく少なくしたくて、毎日のようにコワーキングスペースに通って仕事をしている。

今日も朝早くに目が覚めて、朝からコワーキングスペースへ。

でも今日は、昼前にはやることが終わってしまって、しぶしぶ家に帰る。

 

家に帰っても、何もやることがなくて、趣味はあるけど、何もやる気になれなくて、

だんだんと胸のあたりが苦しくなる。

 

耐えきれなくなって、外に飛び出す。

階段が長そうで行ったことのなかった近所の神社に行ってみることにした。

今なら、どんな長い階段でも登れる気がした。

よし、と心を決めて登り始めると、その階段は笑っちゃうくらい短くて。

 

そんなもんだよな、と思った。

長いと思ってためらっていた階段ほど、登ってみると案外短くて。

高いと思っていた場所は、なんてことない高さで。

そこには、なんてことのない景色が広がっている。

私がためらっていたものは、こんなもんだったのか。

 

そんなことばかりだ。

 

それからなんてことのないベンチにしばらく座り、街の音と鳥の声と水の音を聞いた。

平日の昼間にこんなところに来る人なんて誰もいなくて、

これでも社会人の私は、一体何をやっているんだろうと思った。

 

こんな生活をしていて、いいんだろうか。

 

私は、このままでいいんだろうか。

 

階段を降りて、そのまま帰るにはあまりに早すぎたので、近くの小さな水車を見に行った。

誰か知り合いに見られるんじゃないかとビクビクしながら、しゃがみこんで、ただ流れる水を見ていた。

 

昨日見た『サティシュの学校』という映画で、サティシュが、川のように生きなさい、みたいなことを言っていたのを思い出した。

ただ流れる水のように生きていけたら、どんなに気持ちがいいだろう。

 

本当は、暗くなるまでここで水を眺めていたかったけれど、道ゆく人や車が気になって、家に戻った。

 

まだまだ外は明るくて、寝るまでの時間をどうやって潰そうかと考えながらこのブログを書いている。

 

大した時間潰しにはならなかったけれど、ただ布団にくるまって苦しさに耐えるよりは、ちょっとでも散歩に出られた今日は、いつもよりちょっと良かったかもしれない。

 

こんな日常が、流れてゆく。

頑張らない生き方を正当化すること

私はまわりの人たちが思っている以上に、頑張らない生き方をしてきた。

みんな知らないだけで、びっくりするくらい頑張っていない。

他の人たちが頑張って生きているのを傍目に見ながら、どうして私は頑張れないんだろう…と、布団の中で涙しながら生きてきた。

人には生きてるだけで充分頑張ってるよって心から言えるのに、自分に対してはそう思いきれないところがある。

こういう生き方しかできないからって、今の生き方を正当化して生きてもいいんだと思う。

でも時々、頑張らない自分を正当化していていいんだろうかって、ふと不安になる。

ほんとはもっと頑張れるんじゃないかって。

 

頑張れるんだったら、もうとっくに頑張ってるはずなのにね。

もう全部、疲れた

泣きながらお酒を飲んでいる。

お酒は1日1缶までという自分で決めたルールを破って2缶目を開けたところで、「何やってんだろ」と、堪えていた涙が止まらなくなった。

 

別に何があったわけでもないし、よくあることだけれど、

突然、すべてが嫌になったのだ。

 

毎日の退屈な生活も、

仕事をこなすことも、

人と関わることも、

元気なふりをすることも、

自分が今、生きていることも。

 

全部が全部、もう、疲れた。

 

でもきっと私は、こうやって生きていくんだろう。

生きることに疲れ果てて、一人で泣きながら。

助けてって言えずに、孤独を自ら選びながら。

 

いつまで悲劇のヒロイン続けるんだろって、心のどこかで嘲笑いながら、アルコール度数の強いお酒で誤魔化す。

 

そんな夜も、あっていいよね。

人の幸せを喜べない自分が嫌いだ。

身内や大好きな友人の幸せさえも素直に喜べない自分がいる。

「おめでとう」って、ただその一言が言えなくて。

おめでとうって、思えなくて。

情けないくらいに嫉妬で溢れる自分が大嫌いだ。

 

私だって、幸せになりたかった。

私がほしかったものを、どうしてそんなに次々と手に入れていくのか。

どうして私は、今ある幸せを抱きしめられないのか。

 

心の底からおめでとうって言える自分でいたい。