ももばちの軌跡

人のヤミが好きなだけのももばちの、ヤミの悲鳴とアイ。自分のヤミと向き合いながら生きる、ももばちの奮闘記。

痛い。

なぜだか分からないけど、

心の奥が、痛い。苦しい。

 

どうしたの?何が言いたいの?って問いかけるけど、

ぎゅっと閉ざした扉は、何も答えてくれない。

 

このくらい、大したことないって蓋をすることもできるけど、

後からヤミが暴れ出すから。

 

苦しさが集まってきて「痛み」になる時は、

ヤミが何かSOSを出しているから。

 

すぐには分からなくても、「何が言いたいの?」って問いかけ続ける。

 

痛みを、なかったことにしない。

 

今、どうしようもなく苦しくて、痛い。

 

それでいい。

「死ぬ勇気」という言葉に、今思うこと

「死にたいっては思うけど、死ぬ勇気はないから」

そんな言葉をよく耳にする。

 

それは、私自身も過去に何度も心の中で呟いていたからこそ、今、思うことがある。

 

「死ぬ勇気」という言葉から、何度も何度も思い出す光景がある。

 

それは、消えたいとしか思えなかった暗黒時代の、忘れられない記憶。

 

部活終わりの帰り道、放心状態で歩いていた時のこと。

踏切を渡った瞬間に、

カンカンカン…とバーが下りてきて、

 

その瞬間、

私の意識が身体から飛び出して、

すごく高いところから自分の身体を見下ろしている自分がいた。

 

身体が勝手に、踏切に吸い寄せられるように歩み寄っていくのを、

ただ眺めていた。

 

何も感じなかった。

死のうっていう意思すらなかったと思う。

 

「人ってこうやって死ぬんだな」って、

他人事みたいに、冷たい視線で、

ただ眺めていた。

 

踏切のバーをくぐろうと身体を傾けた時に、反対側から車が来て、

ハッと我にかえって慌ててその場から逃げたのを覚えている。

 

もしあの時、あの瞬間に車が来ていなかったら。

 

あの時、死んでいたかもしれない。

 

それから、

死ぬ時の感覚を知ってから、

死ぬことへの恐れがなくなった。

 

受け入れられない強いストレスを感じた時に、意識的に自分の身体から抜け出すこともできるようになった。(最近はほとんどなくなったけど)

 

自分がどんなにズタボロになっても、自分から抜け出して冷たい視線で見下ろして「いい気味だ」って嘲笑う。そうすることで、痛みから逃げられるから。

 

私の場合、死ぬ勇気がないから死ねなかったんじゃない。

 

死にたいほど苦しかったけど、まだ死ねないっていう気持ちが僅かでも残っていたから、生きていた。

 

私が死ぬときは、たぶん、勇気とかそんなのなくて。

何もなくなって、消えるように死んでいくんだと思う。

死んだことないから分かんないけどね。

 

「死ぬ勇気」なんて、そもそも存在しないと思うんだよな。

 

「死ぬ勇気がない」っいう言葉の裏には、

死にたいと思うほど苦しいっていうこと、

そして、それでも生きている理由がある。

 

私は、そう思う。

壮大な映画の悲劇のヒロインでいたいから

私の中に、自分が幸せになることへの抵抗感がある。

それはたぶん、小学生5,6年生の頃に作り上げた、私が悲劇のヒロインを演じる映画の世界で今も生きてるからだと思う。

悲劇のヒロインでいたいんだよな。

そうじゃなきゃ、ヤミと共に生きてきた意味がない。

数えきれないくらいのどん底を生きてきた悲劇のヒロインが、突然幸せになるハッピーエンドな映画は、私はあまり好きじゃない。

死ぬために生きる。

痛みと共に激しく削るように命を使って、自分という命を削りきった時に、笑って自分とさよならする。

そういうちょっと切ない悲劇のストーリーが、私の中にできあがってるから。

 

幸せになんて、なりたくないのかもしれない。

 

この壮大な映画のエンディングを探している。

優しくしないで。

人から優しくされることを恐れてる自分がいる。

話きくよ?って言ってくれる優しい人が近くにいるのに、

ほんとは聞いてほしいって思ってるのに、

 

それに見合うお返しできないから…とか、

ただでさえ存在価値ない私が、相手の負担になるようなことできないとか、

 

ありったけの言い訳を並べて、相手の優しさから逃げ出しちゃう。

 

心閉ざしたままの自分で、受け取ったフリして誤魔化しちゃうこともある。

 

気にかけてくれてることは嬉しいし、すごくありがたいなぁって感謝もしてるんだけど。大好きなんだけど。

 

なんでこんなに距離とってんだろ、私。

 

大好きとか言いながら、自分は心開いてないじゃん。信じてないじゃん。

 

いや、相手のことは信じてるけど、

自分の存在価値を信じられないから、

 

人のためにエネルギーを使える優しい人だと分かってるから、

私なんかにエネルギーを使わないでほしい。

 

あなたが好きと言ってくれた私は、

私の中のごく一部にすぎなくて、

あなたから見えていない私は、あなたに愛してもらえるような人間じゃないかもしれない。

 

こんな私が、お返しできるかも分からない優しさを、ただ受けとっていいのかな?

 

ヤミ期が近づくにつれて「優しくしないで!」が強くなる。

 

ぬくもりから逃げ出して、暗くて冷たいところに行きたくなる。

 

ヤミがあるから人は愛しい。

 

でもやっぱり私は、

自分だけは嫌いなんだよな。

 

※追記

私はめちゃくちゃ依存体質で、聞いてもらえるって思ったらヤミ期に入った時に一気になだれ込んでしまって相手を傷つけるリスクがあるから、
それを避けるために優しさを受け取ることへの抵抗感が強いのもあるかも。

封印していた“宝箱”を、開きたい

私は私の“たからもの”を、

「普通」じゃないからと否定して、

封印しながら生きてきた。

 

大好きだったもの、

森の中で過ごした、心踊るような、ワクワクが溢れ出すような、あの時間。

あたたかく、包み込むように見守ってくれた大人たち。

 

あの空間、あの時間は、

全部「普通」じゃなかったんだ。

 

普通じゃない環境で、普通じゃない体験をしてきたから、

今の普通じゃない私がいる。

 

"たからもの"だったはずのあの時間は、

いつしか私を苦しめる憎いものになっていた。

 

「普通」になりたくて、

私は“たからもの”を捨てた。

 

自分が好きなもの、心踊ることは、

まわりの「普通」ではないから、

まわりに承認される「普通」な自分を、

必死に演じるようになった。

 

これまでテレビとかゲームとか興味すら持たなかったのに、みんなと一緒にいたくて、みんなと普通に話がしたくて、

父親に、テレビがみたい、ゲームがほしいと泣きわめいてお願いした。

「普通はみんなゲーム持ってるし、テレビも見てるのに、なんでダメなの?」

って。

 

でも、その想いは届かなくて、

「そんなの必要ない。」の一点張りで、聴いてもらえなかった。

 

今思えば、父は父で、まわりの「普通」に合わせる生き方じゃなくて、本当に大切なものを守り抜いてほしいという想いがあったのかもしれない。

 

でもその時の私は、まわりの「普通」に適応することでしか、生きることができなかった。

 

こんな変な家に生まれたくなかった。

 

そうやって、"たからもの"を否定して、

「普通」じゃない自分を否定して、

でも「普通」が分からなくて。

 

今の自分は「普通」になれてるんだろうか?って、なるべく目立たないように、まわりの人たちの真似をして、息を潜めて生きていた。

 

私は「変な奴」だから、

好きなこととか、考え方とか、心に浮かぶ感覚とか、ぜんぶみんなとズレていて、

本当の自分を隠し通さないと「普通」になれないんだって。

 

透明人間のように、

表情を変えず、

声を出さず、

余計な動きをしないように…。

 

誰よりも私の存在を否定し、私の"たからもの"を憎んで消し去ろうとしていたのは、他でもない私自身だった。

 

長かった暗黒時代が終わって、

私ははじめて、「普通」じゃない私をそのままさらけ出せる人たちに出会った。

 

大学以降に出会った人たちは、私の暗黒時代の「普通」という枠組みとは違う世界で生きている人たちだった。

 

私は私のままで生きていいのかもしれない。

そう思わせてくれた。

 

でも、暗黒時代に形成された私のヤミが消えることはなくて、このヤミをエネルギーに変えて生きていくしかない。

 

死ぬために生きる。

溜め込みすぎた大きなヤミのエネルギーを、愛という形でこの世に遺して、さっさと死んでやる。

 

そう思って、今も生きている。

 

でも最近、捨ててしまったと思っていた"たからもの"の存在が、頭にチラつくようになった。

 

地元に帰ってきて、小さい頃よく遊んでいた森に子供たちと入っていき、そこであの頃の私みたいに大はしゃぎして遊ぶ子供たちの姿を見た時に、

なんとも言えない、虚しさがおそってきた。

 

たしかにここに、私の"たからもの"があるのに、あの時とは違う自分がいる。

 

捨ててしまった"たからもの"は、

取り戻せないんだろうか。

 

いや、でも、たしかに私の中に、あの時の記憶も、その時の感覚も残っている。

 

私は"たからもの"を、捨ててなんていなかった。

どんなに否定しても憎んでも、消えてなくならないように、

鍵のついた頑丈な宝箱の中にしまって、心の奥底に沈めていただけなんだと思う。

 

だから、あの森に入ったとき、こんなにもヤミが「ここにあるよ!」って叫ぶんだ。

 

宝箱の存在は、前々から薄々感じていた。

 

でも生きたくない私が、自分の存在価値を信じられない私が、やっぱり普通でいたい私が、

宝箱の鍵をあけることをずっと拒んできたんだと思う。

 

こわいけど、

この宝箱を開かない限り、

私の呪いが解けることはない。

 

最近、そんな気がならない。

 

簡単なことじゃないけどね、

 

開きたいって思えた今がきっと、

宝箱を開くタイミングなんだと思う。

絵が描けないコンプレックスを紐解いてみた

絵が描ける人に対して、嫉妬してしまう自分がいる。

私も絵描けたらよかったのにって、いつも思う。

 

小さい時は、大きくなったら何になりたい?と聞かれると、

迷わず「絵かきさん!」って答えてたくらい、絵を描くことが好きだった。

 

保育園でも、私の記憶にある限りでは、絵を描いていた時間がほとんどだった気がする。

 

でもいつしか、私は絵を描くのが苦手だと気づいてしまった。

それがどうしてなのか、何かきっかけがあったのかははっきり思い出せないけれど。

 

もしかしたら、小学5年生で初めて同級生ができて、まわりの子たちの方が絵が上手いと感じたのかもしれない。

 

そんなこんなで、私は「絵かきさんになりたい」という夢を早々に諦めた。

 

絵よりも文章で表現する方が得意だと気づいた、というのもあるかもしれない。

 

でも思い返してみると、中学生の時の美術の授業が大好きで、

普段まわりの子たちが描くようなかわいいイラストは描けないけど、デッサンとか、風景画とか、見たものをそのまま描くのは得意で、先生に褒められて嬉しかった記憶もある。

 

絵が描けないって自覚してからずっと絵を描くことからは逃げてたけど、色鉛筆がとにかく大好きで、お小遣いを貯めてはいろんな色の色鉛筆を買い揃えていた。

絵は描かないけど、塗り絵で見本の通りの色を再現したり、自分の好きな色をつくったり、影をつけて立体感を出すのが楽しくて、

その時間は、すべてを忘れて夢中になれてたな。。。

 

自分で輪郭を描くことへの、恐れがある。

 

ちょっとこじつけかもだけど、

絵が苦手って自覚したタイミングが、

「普通にならなきゃいけない」って思い始めたタイミングと重なる。

 

もしかしたら今でも、

「普通」でありたい私が、

輪郭を描くことを拒んでるのかもしれない。

 

輪郭から描かずに、

色を塗ってたら自然に輪郭ができてた、みたいな、

そういう絵なら描けるかもしれない。

 

でもそれで「絵が描ける」っては言えない自分がいるんだよな。

 

「絵」っていう言葉にこだわらず、

単純に「色が好き」って言っとけばいいのかな。

 

得意じゃなくても、好きって言っていいはずなのにね。

 

 

※追記

今思い出したけど、小学生くらいの時に、元美術部だった母親から絵の個別レッスンみたいにマンツーマン指導してもらってた時があって、

左右対称にハートを描く練習とか、均等なグラデーションとか、毎回課題を出されてやってたんだけど、なかなか合格がもらえなくて、

そこで自信なくしたのも関係あるかも。

(結局お母さんに行きつく、、、笑)

トモダチって、なんだっけ

利害関係じゃない、価値提供とか損得とかじゃない、存在そのものを認め合って、心に浮かんだことをそのまま共有し合えるような、

そんな人との関係を築きたいって思ってるはずなのに、

 

相手に求められてないって感じると、心の奥がえぐられるように苦しくなって、逃げ出したくなる。

 

この人にとって、私の存在は必要なんだろうか?って、そんなことばかり気にしてて、

相手にとっての自分の必要性が確信できないと、関係性を維持することが苦しくなる。

 

友だちはいないわけじゃないし、何も価値提供しなくても繋がっていてくれるだろうなっていう友だちもいるんだけど、

心のどこかに、相手にとってプラスの存在でいなければいけないっていう呪いがある。

 

相手の負担になるのがこわくて、

湧き上がってくるヤミの声をそのまま伝えることができなくて、

 

大好きな友だちはたくさんいるのに、

ヤミを共有できない関係性が、なんだか薄っぺらく感じて、孤立感が深まっていく。

 

ヤミの声をそのまま共有しても、否定しないで聴いてくれるって、そのまま受け止めてくれるって、分かってる。

 

分かってるんだけど、人と話す時にどうやったら感情を表現できるのか、分からない。

 

ひとりでいる時はヤミの言葉が溢れてくるのに、

人を前にすると、私のヤミがすっと引っ込んで、押し黙ってしまう。

湧き上がってこないから、記憶を辿って、これまで言語化してきた感情を話してみたりするけど、

 

その後またひとりになった時に、「そういうことじゃない!もっと感情を共有したかったのに!!」ってヤミが暴れ出す。

 

何も気にせず、何でも話せる友だち、いないかもしれない。

 

まだ少しエネルギーがある時なら助けてって言えるけど、

どん底まで落ちてほんとにしんどい時、

今の状況をどう説明したらいいか分からない時、

ひとりでいることが苦しくて、助けて…!ってヤミが悲鳴を上げてる時に、

 

誰かとつながりたくてLINEを開くけど、

「たすけて」の4文字が送れなくて、

泣きながらスマホを放り投げる。

 

私は大好きな友だちのこと、信じきれていないのかもしれない。

 

トモダチって、なんだっけ?