私は私の“たからもの”を、
「普通」じゃないからと否定して、
封印しながら生きてきた。
大好きだったもの、
森の中で過ごした、心踊るような、ワクワクが溢れ出すような、あの時間。
あたたかく、包み込むように見守ってくれた大人たち。
あの空間、あの時間は、
全部「普通」じゃなかったんだ。
普通じゃない環境で、普通じゃない体験をしてきたから、
今の普通じゃない私がいる。
"たからもの"だったはずのあの時間は、
いつしか私を苦しめる憎いものになっていた。
「普通」になりたくて、
私は“たからもの”を捨てた。
自分が好きなもの、心踊ることは、
まわりの「普通」ではないから、
まわりに承認される「普通」な自分を、
必死に演じるようになった。
これまでテレビとかゲームとか興味すら持たなかったのに、みんなと一緒にいたくて、みんなと普通に話がしたくて、
父親に、テレビがみたい、ゲームがほしいと泣きわめいてお願いした。
「普通はみんなゲーム持ってるし、テレビも見てるのに、なんでダメなの?」
って。
でも、その想いは届かなくて、
「そんなの必要ない。」の一点張りで、聴いてもらえなかった。
今思えば、父は父で、まわりの「普通」に合わせる生き方じゃなくて、本当に大切なものを守り抜いてほしいという想いがあったのかもしれない。
でもその時の私は、まわりの「普通」に適応することでしか、生きることができなかった。
こんな変な家に生まれたくなかった。
そうやって、"たからもの"を否定して、
「普通」じゃない自分を否定して、
でも「普通」が分からなくて。
今の自分は「普通」になれてるんだろうか?って、なるべく目立たないように、まわりの人たちの真似をして、息を潜めて生きていた。
私は「変な奴」だから、
好きなこととか、考え方とか、心に浮かぶ感覚とか、ぜんぶみんなとズレていて、
本当の自分を隠し通さないと「普通」になれないんだって。
透明人間のように、
表情を変えず、
声を出さず、
余計な動きをしないように…。
誰よりも私の存在を否定し、私の"たからもの"を憎んで消し去ろうとしていたのは、他でもない私自身だった。
長かった暗黒時代が終わって、
私ははじめて、「普通」じゃない私をそのままさらけ出せる人たちに出会った。
大学以降に出会った人たちは、私の暗黒時代の「普通」という枠組みとは違う世界で生きている人たちだった。
私は私のままで生きていいのかもしれない。
そう思わせてくれた。
でも、暗黒時代に形成された私のヤミが消えることはなくて、このヤミをエネルギーに変えて生きていくしかない。
死ぬために生きる。
溜め込みすぎた大きなヤミのエネルギーを、愛という形でこの世に遺して、さっさと死んでやる。
そう思って、今も生きている。
でも最近、捨ててしまったと思っていた"たからもの"の存在が、頭にチラつくようになった。
地元に帰ってきて、小さい頃よく遊んでいた森に子供たちと入っていき、そこであの頃の私みたいに大はしゃぎして遊ぶ子供たちの姿を見た時に、
なんとも言えない、虚しさがおそってきた。
たしかにここに、私の"たからもの"があるのに、あの時とは違う自分がいる。
捨ててしまった"たからもの"は、
取り戻せないんだろうか。
いや、でも、たしかに私の中に、あの時の記憶も、その時の感覚も残っている。
私は"たからもの"を、捨ててなんていなかった。
どんなに否定しても憎んでも、消えてなくならないように、
鍵のついた頑丈な宝箱の中にしまって、心の奥底に沈めていただけなんだと思う。
だから、あの森に入ったとき、こんなにもヤミが「ここにあるよ!」って叫ぶんだ。
宝箱の存在は、前々から薄々感じていた。
でも生きたくない私が、自分の存在価値を信じられない私が、やっぱり普通でいたい私が、
宝箱の鍵をあけることをずっと拒んできたんだと思う。
こわいけど、
この宝箱を開かない限り、
私の呪いが解けることはない。
最近、そんな気がならない。
簡単なことじゃないけどね、
開きたいって思えた今がきっと、
宝箱を開くタイミングなんだと思う。