ももばちの軌跡

人のヤミが好きなだけのももばちの、ヤミの悲鳴とアイ。自分のヤミと向き合いながら生きる、ももばちの奮闘記。

「助けて」の練習

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本当にどうしようもなくしんどい時、

本当に助けてほしい時に、

助けてって言える人は、案外少ないんじゃないかと思う。

 

「みんな頑張ってるのに、こんなことで助けを求めちゃダメだよね」

状況が深刻になればなるほど、なぜか助けを求めるハードルはどんどん上がってく。

 

例に漏れず私も、助けてって言うのがとても苦手。

相手は今忙しいかもしれないし、私のことなんて助けたいと思わないかもしれないし、助けてくれたとしても相手の負担になるかもしれないし……って、

ありったけの言い訳をならべて、助けてっていう悲鳴を噛み殺してきた。

 

そして、誰も助けてくれない、自分は1人なんだって、さらに殻に閉じこもる。
傷つきたくないから。
弱い自分をさらけ出したときに拒絶されたら、きっともう立ち直れないって、そう思ってた。

 

でも、どんなに強がって殻に閉じこもっても、心のどこかでは、助けて!って叫んでた。

 

その叫びを見て見ぬふりして殺していたのは、

ほかでもない私自身だった。

 

もういいかげん、抜け出したい。

助けてって思ってるだけじゃ、ずっとこのままだ。

ほんとに助けてほしいなら、ちゃんと言葉で助けてほしいって伝えなきゃ。

 

ものすごく時間はかかってしまったけど、

いろんな人にきっかけをもらい、ようやく弱い自分をさらけ出す覚悟ができた。

 

それでもまだ、ほんとに苦しくて闇に沈んでしまってから助けを求めるのはあまりに難しいから、

何年か前から、「助けて」と言う練習を意識的にやってみてる。

 

これ分かんないので教えてください!とか

これできなくて困ってます!助けて!とか

寂しいから飲もう!とか(笑)

まわりの力を借りるほどじゃないかも?というものでも、あえて小さな「助けて」を言うようにした。

 

越えたいハードルが高すぎるなら、

小さなハードルで普段からたくさん練習していたら、

いざという時に、もしかしたら飛べるかもしれない。

 

それでね、実際に小さな「助けて」を言うようになって、気づいたのは、

私のまわりには、私のことを見てくれている人、手を差し伸べてくれる人がいたこと。

私はまわりの人たちのこと、大好きだけど信じ切れていなかったこと。

助けてもらうことは、愛の循環を生み出すこと。

 

 

つい最近、大きな闇期がやってきて、心も身体も飲み込まれてしまった期間があったのだけど、

その闇期に入る直前に、なんだか心がザワザワして、これは闇期くるなっていう予兆みたいなものがあった。

飲み込まれてしまったら、きっと助けてって叫ぶこともできなくなる。

これまでの経験からそんな気がして、知り合い限定でFacebookに小さくSOSを出した。

普段の練習用のハードルと違って、自分自身の闇に関わる部分なので、ちょっとこわかった。

 

投稿した時間が深夜だったこともあり、誰か1人でも反応くれたら嬉しいなくらいの気持ちだったのだけど、

びっくりするくらいたくさんの知り合いが連絡をくれて、すごく心配してくれて。(ご心配おかけしました)

その直後に闇期に突入してしまったので、ちゃんと返信できなかった人もいて申し訳ないと思いつつ、

沈んでいくなかでも、その愛は感じてた。

 

闇期が苦しいことに変わりはないんだけども、フライングとはいえ、私がほんとに助けてって叫びたくなる闇期で「助けて」って言えたのは、絶対忘れられない大きな一歩だった。

 

「助けて」って言うのは、簡単なことじゃない。

でも、ほんとにしんどい時くらい、

思考停止して、何も考えずに「助けて!」って叫んだっていいんじゃないかと私は思う。

あなたが思っているよりもずっと、

あなたのまわりの人はあなたの力になりたいと思ってるよ。

信じてほしい。

 

でもね、頭では分かっていても、いざと言う時に助けてって言えない人もいるから、

まずは自分にとっての小さなハードルから、「助けて」の練習をはじめてみてもいいと思う。

 

大丈夫。

助けてって叫び続けたら、絶対誰かが応えてくれるから。

脳内セカイ

「なんか疲れちゃったな」

ある1人の自分が、そう頭の中でつぶやくと、

 

もう1人の私は、

「何もしてないくせに、何に疲れたっていうんだよ」

と冷たく言い、

 

また別の私は、

「生きてれば何もしなくたってエネルギーを消耗するもんだよ。寝ているだけでも、何も食べなければ痩せていくでしょ?」

とフォローしてくれる。

 

さらに別の私がそれを聞いて、

「ド正論だなw」

と笑っている。

 

頭の中で繰り広げられる4人の私のやりとりに、思わずクスッと笑ってしまう。

 

今日の脳内では、平和なセカイが展開されています。

 

もちろん脳内セカイは常に変化していて、いつも平和なわけじゃない。

冷たい私、ネガティブな私しか登場してこない時は、冷たくて真っ暗なセカイになる。

 

そんな時は、その真っ暗な世界に閉じ込められてしまわないように、

脳内セカイを外から俯瞰する私をつくらなきゃいけない。

(マインドフルネス的な思考法に近いのかな?)

脳内セカイの中から、1人の私を引っ張り出すイメージだけど、これがとても難しくて。

平和なセカイの時には、今日みたいにするっと外に出て俯瞰できるのに、

暗闇が濃ければ濃いほど、脳内セカイから抜け出す出口が見えなくなる。

しかも、そのセカイにいる私たちがこぞって、抜け出そうとする私の足を引っ張る。

 

今のところの攻略法は、

①暗闇が濃くなる前になるべく早く脱出する(俯瞰する自分をつくる、無理しない)

②抜け出せなくなったら、諦めて暗闇が薄くなるのを待つ(笑)

 

実際は①の段階で一度抜け出せたとしても、俯瞰する私はいつの間にかいなくなっちゃうことが多いので、②パターンになることが多い。

 

ほぼ不可抗力だと思ってるので、脱出できるなら、脱出する(俯瞰する)けど、

無理なら無理せず、何もしない。

 

元気な時にこうやって方針を決めておくと、いざ暗闇のセカイが来て何もできなくなった時の罪悪感がちょっと軽くなったりする。

 

 

さて、明日はどんな脳内セカイが展開されるのやら。

「心のさけびノート」10年前の私へ

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小学5年生で転校した時から高校まで、

私は声に出せない心の悲鳴を、1冊のノートに書き殴っていた。

 

そのノートには、ただの感情の吐露もあれば、

自分自身を投影した小説も断片的に書いていた。

 

きっと処分してしまったはず、と思っていたのだけれど、ふと思い出して探してみると、案外簡単にひょっこり出てきた。

 

今なら、当時の自分を許せるんじゃないか。

そう思って開いてみたけれど、ノートに記された生々しい言葉を目にした時、

私の中に出てきたのは、嫌悪感だった。

 

盲目でまわりが見えないまま、自分の世界の中で悲劇のヒロインを演じる姿。

恋愛感情かのように書かれた言葉は、ただ依存の沼にハマっているだけだった。

 

「痛い奴だな」

そう思ったのは、今の私がこの時と大して変わっていないからかもしれない。

 

同族嫌悪。それに似た感情だった。

 

もう、いい加減抜け出したい。

 

何となく、この時の自分を許せない限り、抜け出せない何かがある気がして、

 

自分に言い聞かせるように、でも、本音から離れないように、

10年前、このノートを書いていた自分に手紙を書いてみようと思う。

 

**********

10年前の私へ

 

10年前の私は、それから10年後も生きてるなんて、思ってなかったよね。

今日を生きることすら苦しいのに、明日を生きたいなんて思えなかった。

 

今でもたまにそういう感覚になることはあるけど、なんだかんだ生きれちゃってるよ。

 

あなたが書いたノートを開いた時、正直、同じ私だと思いたくないくらい、冷たい感情が湧いてきました。

 

でも、自分の世界に酔ったポエミーすぎる文章は、今書いているこのブログとそんなに変わらなくて。

 

闇の中で盲目になる感覚も、今と何ら変わりのないものでした。

 

頼れるものが何もなくて

誰も信じられなくなって

でも信じたくて

でも離れていくのが怖くて

必要とされたくて

見てほしくて

 

このノートの中でしか吐き出せなかった闇は、

今では、このブログを読んでくれてる人や話を聞いてくれるあたたかい人たちに、包んでもらえるようになりました。

 

消えたいとしか思えなかった10年を経て、最近、ようやく少しだけ、「生きる」という前提でいろんなことを考えれるようになりました。

 

逃げ場のなかった地獄の中で、

現実を現実として捉えるのはあまりに辛すぎて、

物語の世界に逃げたのは、きっと間違いじゃなかった。

背負いきれない現実を、自分が主人公のフィクションとして捉えていたのは、きっとすごく自然なことだった。

 

誰にも胸の内を明かせなくて、ただ一人の人に必要とされたい、信じたいと願うのは悪いことじゃなかった。

 

そのことに嫌悪感を持ってしまってごめんなさい。

 

だれよりも人の心の痛みに、そっと寄りそえる人になりたい。

 

あなたが高校生になってからノートに書いていたこの言葉は、今でも私の中心にあります。

 

思えば私は10年前から、自分に似た痛みを持った人の力になりたいと願い、

それを救いに生きてきたのかもしれないと、ノートを読んで感じました。

 

あなたが望んだ姿に、私は近づけているのかな?

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「まわりに心配をかけない強い人」にはなれそうにないけど、

人を信じてさらけ出せる強い人になりたいな。

 

あなたのノートを見ながら、

「こんな時もあったな」なんて笑えるようになるには、

まだもう少し時間がかかりそう。

 

もうちょっと、待っててね。 

 

 

消えたいと願ってから10年以上、

長いトンネルはいまだに出口が見えていないけれど、

 

「10年以上も暗闇をさまよってるんだから、そろそろ出口くらい見つけてよ」

とあなたの声が聞こえてきそうなので、

 

もう少しだけ、踏ん張ってみるよ。

 

 

 

生きていてくれて、ありがとう。

 

 

ほんとは、気づいてほしい。

自分で言うのもなんだけど、私は幼少期から、自分の感情を隠すのが上手い子どもだったと思う。(多分)

 

少なくとも、常にまわりの人のネガティブな感情を感じとり、バランスをとろうとしていた気がする。

 

 

特に忘れられないのが、たしか中学3年生の真冬のこと。

 

その頃の母は、夜になるとお酒を飲み、毎日のように家出をしていた。

その日も吹雪の中外に出ていった母を、父と私と弟で捜索していた。

雪の上に残った足跡を頼りに、ようやく母の姿が見えた時、

母の向かう先が、崖になっているのが見えた。

 

「先に帰ってなさい」

と、いつになく緊迫した声で父に言われ、私は当時まだ小学生だった弟を連れて家に帰った。

 

弟は家に着くなり、こたつの中に潜って泣いていた。

 

それを見た私は、「何そんなとこに潜ってんの笑」と、なぜかケラケラ笑っていた。

 

胸の奥が、心が削られるような、そんな痛みがあった。

 

(この先の記憶は曖昧なので、若干事実と異なるところがあるかもしれない)

 

しばらくして父は、1人で帰って来た。

 

お母さんは!?

聞きたかったけど、聞けなかった。

 

それは、父の目にうっすら涙が浮かんでいるのが見えたから。

 

泣き続ける弟と、静かに涙を浮かべる父を前に、

なぜか私だけ、泣けなかった。

 

夜遅い時間だったので、もう寝ていなさいと言われ、私と弟はそれぞれの布団へ、父は居間で、母の帰りを待っていた。

 

寝なさいとは言われても、こんな状況で寝れるはずもなく、弟は布団に入っても泣き続けていた。

 

弟は泣き疲れて、しばらくすると泣き声が寝息に変わった。

 

それからかなりの時間が経って、

玄関が開いて、母が帰って来た音がした。

 

父と母の声がポツリと聞こえた瞬間、

ようやく私の目から涙が溢れてきた。

 

 

この出来事が私の中では特に強烈に残っているのだけど、

他にもよく、「泣きたいはずなのに笑ってる」ということがよくあったなぁと思う。

 

それは今でも残っていて、

誰かを前にすると、自分の感情をそのまま表現することができなくなってしまうなと。

(だからこうやってブログに垂れ流しているわけだけど)

 

基本的にはそれでいいと思って生きてきたし、まわりの人がネガティブな感情になることで自分までますますつらくなっちゃうから、自分のための行動でもあるなと思う。

 

ただ一方で、自分の気持ちを分かってほしいと思った時に、そのままの感情を伝えることがすごく苦手で、

 

分かってほしいくせに、話したいくせに、

無意識的に、相手の気持ちがネガティブにならないかとかいろいろ気にしすぎて、

笑い話に変えてしまったり、「事実」は言えるけど、ほんとに伝えたい「感情」の部分が話せなかったりする。

 

伝えられない。

でも、きづいてほしい。

 

笑ってるけど、

平気な顔してるけど、

全然大丈夫ですよって言っちゃうけど、

全く表情に出ないけど、

 

ほんとはたくさんのネガティブな感情が、

身体中を駆け巡っていること。

 

吐き出したくて、

でもどうしたらいいか分からなくて、

頼りたいけど頼りきれないこと。

 

伝えられない私が悪いんだけど、

でも、ほんとは、気づいてほしい。

涙って、何のためにあるんだろ?

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ふと、涙って不思議だなと思った。

 

涙の身体的な役割は、目に入った異物を洗い流すことのはず。

 

だとしたら、悲しい時、感動した時、悔しい時に流れる涙は、なんのためにあるんだろ?

 

ここから先は、私の勝手な妄想だけど、

 

もしかしたら、目に見えない感情を、目に見える形で相手に伝えるために流れるのが涙なんじゃないか。

 

激しく揺れ動く感情を自分の中だけで留めておくと破裂してしまうということを、人間の身体は分かっているんじゃないか?

 

「助けてください」

そう言葉で伝えることの難しさを知っているから、言葉にならない湧き上がる感情を伝えられるように。

 

もしそうだとしたら、

涙は人に見せないと意味がないということになる。

でも、涙を人に見せちゃいけないって思ってる人結構多いよね。私もその1人だけど。

 

誰の前でも涙を見せるっていうのは難しいかなと思いつつ、

感情が溢れてとまらなくなった時、涙を見せることができる信用できる人がいるってすごく大事だなと思った。

 

一方で、1人で流す涙に全く意味がないかというと、そうでもない気がする。

 

胸の奥底から込み上げてくる形なき痛みが、

涙という「物質」に変わってこぼれ落ちる。

 

それによって、胸の奥の痛みがすこーし軽くなったように感じたことのある人も、少なくないんじゃないかと。

 

なんなら、ずーっと涙を流し続けたら、胸の奥の痛みがすべて流れてなくなる!?

(その前に脱水症状になりますね)

 

ということでただの妄想タイムでしたが、

「涙を流す」って、人間にとってけっこう必要なことなのかもしれないと思った話でした。

 

人前で涙、見せれるようになりたいな。

※ひとりごとです

このブログ書くのはめちゃくちゃ久しぶりですね。

 

歳をとって、いろいろ経験して、

自分に価値があるって、何もできなくても存在してていいって思えるようになりたいと願って、自分に言い聞かせてみたり、

(あんまり言ってなかったけど)最近病院にも通いはじめて、できることをできる限り頑張ってみたけど、

 

結局まわりから求められてないって感じると消えたくなるし、

せめて身体だけでも求められたいって思うし、

そう思っちゃう自分に吐き気がしてさらに嫌いになる。

 

朝から「私の存在って価値あんのかな」とか過去のこととかいろんなことが頭を巡って、謎に涙がとまらなくなったので、ここに吐き出させてください。

とてもSNSでは書けないし、誰かに聞いてもらうにも、言語化できてないしわかりやすい「悩み」とかでもないしな…。

 

こういうほんとにしんどい時に限って人を頼れないとこも、ずっと昔から変わんないんだよな。

 

仕事しないと…。

ダメ人間だけど、生きている。

私は、とても自分に甘い人間です。

言い訳して、逃げてばっかりで。

 

頑張れなくて、人に迷惑をかけたり、信用を失って人が離れていったこともあります。

 

社会的に、すごくダメ人間だと思います。

 

いまだに、生きててごめんなさいっていう気持ちになることもあります。

 

 

それでも最近は、たとえダメ人間でも、生きててるだけで偉いじゃんって思うようにしてます。

 

まわりの人にも、生きてるだけでいいよって伝えたいです。

 

たとえ社会的に価値ないとか言われても、

「生きている」っていうこと以上の価値は存在しないから。

 

そんなの甘えだって言われたら、その通りだと思います。

でも、甘えでもいいんです。

 

だって今、生きてるんだから。

生きてるだけで、いいじゃん。