ももばちの軌跡

人のヤミが好きなだけのももばちの、ヤミの悲鳴とアイ。自分のヤミと向き合いながら生きる、ももばちの奮闘記。

また助けてって言えなかった。

今日はちょっと寝不足だったからか、脳内がうるさい1日だった。

日中はハイモードで、頭の中で変な実況みたいなのがずっと流れていて、

帰宅した瞬間、ヤミモードに切り替わって、一斉にヤミが騒ぎ出した。

 

もう、生きるの疲れた。

そろそろエンディングでもいいんじゃない?

もう充分生きたじゃん。

 

今すぐ死にたいっていうのとは違うけど、

生きることがどうしようもなく嫌になった。

 

生きたくなさすぎて、ごはんを食べるということに強い抵抗を感じた。

 

どん底に比べたら、この程度じゃ死なないんだろうなとは思いつつ、

込み上げてくる行き場のない苦しさを、溢れてくるヤミの声を、誰かと分かち合いたくて、

何人かのLINEを開いては見るけれど、

あの人もこの人も、それぞれの事情があるよなって考えちゃって、

もう、寝た方早いやって。

 

そうやって、自分の中の大きな穴が、また広がっていくんだよなって、分かってはいる。

 

相手の負担になるのが、どうしようもなく怖いんだ。

 

また応えられなくて、ごめん。

ずっと、気づいてほしかった。

人と感情を共有したい欲が、ものすごく強い。

もっと深く知ってほしい。見てほしい。

 

そう強く感じるのは、長い間、小学5年の時からずっと、

人に感情を見せることを封印してきたからなんだろうな。

 

暴れ狂う感情や感覚を、誰にも悟られてはいけない。

私の感覚は、「普通」じゃないから。「変な奴」って思われるから。

私の本当の感情を知られたら、母親が傷ついて荒れ狂って、家族が崩壊するから。

 

こんなの大したことじゃないって、表向きは強い自分を演じて、ポーカーフェイスを貫いていた。

 

高校の時には毎晩のように、一緒に住んでいた祖母が寝て1人になってから、堰を切ったように涙が溢れ、声にならない「消えたい」という悲鳴を嗚咽とともに噛み殺していた。

 

こんなにも生きることが苦しくて、

それを誰にも分かってもらえない絶望が、

今も私の中に残っている。

 

ほんとは、気づいてほしかった。

平気なフリをするのが上手くて、身体が重くて起き上がることすらできなくなっても、何も食べられなくなっても、バレないようにうまく誤魔化してやり過ごしてきたけど。

ほんとは、1人では抱えきれないくらい苦しくて、ずっと誰かに助けを求めてた。

 

でも、私の感覚は「普通」じゃないから、誰を信じたらいいのか分からなくて。

信じて裏切られて、みたいな人間関係の駆け引きにうんざりしてて。

そんな駆け引きするくらいなら、私はひとりで生きていく。

 

そう決めたはずなのに、やっぱり、ひとりで生きるのは、苦しかった。重たすぎた。

小学5年生で暗黒時代に入ってから今まで、生きることは、しんどいことが9割だった。

 

生きることは苦しい。

 

だったらせめて、この苦しみに気づいてほしい。見てほしい。

 

人といる時は封印するものっていうのが染みついてて、なかなか解放できないのがもどかしい。

演技しちゃう自分に腹が立つ。

 

でも、

気づいてほしいんだ。

私の苦しみとかしんどさとか痛みとか、

全部、今、ここにある。

存在証明としての恋愛

ただの恋愛依存こじらせてるだけなんだけど、

やっぱり、私の存在を圧倒的に求めてくれる人がほしいって思うんよな。

 

相手からの愛を求めるだけじゃなく、私が相手を心から愛せるような人とパートナーになりたいとは思ってるけど、

絶対条件として、相手が私の存在を圧倒的に求めてくれて、それによって私が私の存在を信じられることっていうのが大きいから、

どんなに魅力的な人に出会っても、私から好きになるということが、まずない。

 

相手から求めてくれないと、信じられないから。

 

自分の存在意義を1人の人に求めることの危うさは痛感してきたけど、

それでも誰かに存在を求められているって信じたくて、それがパートナー以外だとなかなか信じられなくて。

 

もっと分かりやすく、圧倒的に存在を求められてる実感がほしい。

私がこの世界に存在する理由をつくってほしい。

 

うーん、こじらせてるなぁ、、、

もっと深く、つながりたい

人との距離感を縮めることが苦手で、

内側で無意識的にものすごく距離をとって人と関わっている自分がいる。

 

むき出しの感情をそのまま表現することができなくて、

「また共有できなかった」

そんな虚しさが、悔しさが、寂しさが、

身体中を駆け巡る。

 

ほんとは、この溢れんばかりの感情や感覚を、誰かと共有したい。

 

記憶を辿って説明的に話すんじゃなく、その時その瞬間に溢れる感情や感覚を、感情的な言葉で、そのまま共有したい。

 

でも、いざ自分の感情を共有しようとすると、自分の感情感覚がスーッと引いていって、今何を感じているのか分からなくなる。

 

心の距離感を保とうとしてる自分がいて、なかなか表現することを許してくれない。

 

 

でも最近、表現しなくても感覚を共有することができるのかもしれないと思った出来事があった。

私の価値観に共感してくれているとある仲間が、私の住んでいる地元に遊びに来てくれて、私のルーツとも言える大切な場所を案内していた時のこと。

私にとって、ここが原点であり私のアイデンティティの根っこにある場所に足を踏み入れた時、

何も言っていないのに、「ここはすごい…」と涙を滲ませてくれて。

「言葉にできない」と言いながらも、私の原点から何かを感じ取ってくれたことがすごく嬉しくて。

 

私の根っこを受け入れてもらえた。

そんな感覚に、込み上げてくるものがあった。

 

うまく言葉で喋れなくても、別の形で感覚を共有することもできるのかもしれない。

 

むしろ、言葉にしきれないところを共有したいのかもしれないな。

痛い。

なぜだか分からないけど、

心の奥が、痛い。苦しい。

 

どうしたの?何が言いたいの?って問いかけるけど、

ぎゅっと閉ざした扉は、何も答えてくれない。

 

このくらい、大したことないって蓋をすることもできるけど、

後からヤミが暴れ出すから。

 

苦しさが集まってきて「痛み」になる時は、

ヤミが何かSOSを出しているから。

 

すぐには分からなくても、「何が言いたいの?」って問いかけ続ける。

 

痛みを、なかったことにしない。

 

今、どうしようもなく苦しくて、痛い。

 

それでいい。

「死ぬ勇気」という言葉に、今思うこと

「死にたいっては思うけど、死ぬ勇気はないから」

そんな言葉をよく耳にする。

 

それは、私自身も過去に何度も心の中で呟いていたからこそ、今、思うことがある。

 

「死ぬ勇気」という言葉から、何度も何度も思い出す光景がある。

 

それは、消えたいとしか思えなかった暗黒時代の、忘れられない記憶。

 

部活終わりの帰り道、放心状態で歩いていた時のこと。

踏切を渡った瞬間に、

カンカンカン…とバーが下りてきて、

 

その瞬間、

私の意識が身体から飛び出して、

すごく高いところから自分の身体を見下ろしている自分がいた。

 

身体が勝手に、踏切に吸い寄せられるように歩み寄っていくのを、

ただ眺めていた。

 

何も感じなかった。

死のうっていう意思すらなかったと思う。

 

「人ってこうやって死ぬんだな」って、

他人事みたいに、冷たい視線で、

ただ眺めていた。

 

踏切のバーをくぐろうと身体を傾けた時に、反対側から車が来て、

ハッと我にかえって慌ててその場から逃げたのを覚えている。

 

もしあの時、あの瞬間に車が来ていなかったら。

 

あの時、死んでいたかもしれない。

 

それから、

死ぬ時の感覚を知ってから、

死ぬことへの恐れがなくなった。

 

受け入れられない強いストレスを感じた時に、意識的に自分の身体から抜け出すこともできるようになった。(最近はほとんどなくなったけど)

 

自分がどんなにズタボロになっても、自分から抜け出して冷たい視線で見下ろして「いい気味だ」って嘲笑う。そうすることで、痛みから逃げられるから。

 

私の場合、死ぬ勇気がないから死ねなかったんじゃない。

 

死にたいほど苦しかったけど、まだ死ねないっていう気持ちが僅かでも残っていたから、生きていた。

 

私が死ぬときは、たぶん、勇気とかそんなのなくて。

何もなくなって、消えるように死んでいくんだと思う。

死んだことないから分かんないけどね。

 

「死ぬ勇気」なんて、そもそも存在しないと思うんだよな。

 

「死ぬ勇気がない」っいう言葉の裏には、

死にたいと思うほど苦しいっていうこと、

そして、それでも生きている理由がある。

 

私は、そう思う。

壮大な映画の悲劇のヒロインでいたいから

私の中に、自分が幸せになることへの抵抗感がある。

それはたぶん、小学生5,6年生の頃に作り上げた、私が悲劇のヒロインを演じる映画の世界で今も生きてるからだと思う。

悲劇のヒロインでいたいんだよな。

そうじゃなきゃ、ヤミと共に生きてきた意味がない。

数えきれないくらいのどん底を生きてきた悲劇のヒロインが、突然幸せになるハッピーエンドな映画は、私はあまり好きじゃない。

死ぬために生きる。

痛みと共に激しく削るように命を使って、自分という命を削りきった時に、笑って自分とさよならする。

そういうちょっと切ない悲劇のストーリーが、私の中にできあがってるから。

 

幸せになんて、なりたくないのかもしれない。

 

この壮大な映画のエンディングを探している。